昭和43年07月03日 朝の御理解



 先日もこの御理解65節を頂きましたが、今日もまた同じ所を頂くんですけれども、全然内容が違ったものですからどうぞ。読んでみます。

 第65節「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 これはこのままを、まず頂かなければいけませんね。金光様の御信心させて頂くものは、まずこのままで頂かないと、これをここんところを、でけていない様な事では、金光様の御信心もとる。ね、迷信を言うのですから、結婚するのに良い日だとか普請をするのに家相を見るとか、旅立ちをするのに、どうと言ったような窮屈な生活からですね、私どもは解放される。こう言うような御理解のところに。
 金光様の御信心は迷信追放というかね、迷信打破の信心だと言われるのはここです。そこでこの今度はもう一つ向こうの信心ですね。65節から得られるもの。65節から考えなければならないものそれがこの前の、御理解でもございましたですね。そこで昨日の昼の御祈念の後の御理解をもう一遍思うて見なければならん。御神訓の中の神はわが本体の親ぞ信心は親に孝行するも同じ事という御理解でございましたね。
 もちろん神はわが本体の親ぞと言う事は、是は信心があればなおさら信心がなくても是は分かること。是は人間だけではない。万物全てのものが、全ての物の親である事は言うまでもない事である。ね、天地の育みを受けておるもの、すべてだから天地乃親神様なんだ。是は人間だけじゃないと。神はわが本体の親ぞとはそう言う事なんだから、ね、ここはまいいのです。ね、そこまで分かっとればいい。
 けども次がやっぱ信心ですね、信心は親に孝行するも同じ事と。だからここのところにお互いの信心の焦点が置かれなければならないのだ。そこでならどういう信心をさせて頂いたら、ね、親に喜んで貰い親孝行の信心になるかと言う事になる。ね、だからこのところを頂く以外にない。そこで私どもの祈りであり願いである所はどこにおかなければならんかと言うと、どうぞどうぞ完全なる氏子にお取立て下さいと。
 ただ願うよりなしまたその精進よりなしと言う事。昨日とばに書いてあるのは、ただ願うよりなしまででしたね。ここちょっと一言加えておいて下さい。またその精進よりはないのである。ここんところが昨日も申しました様に、只信心して立派な人間になると言うような意味ね、ほんとに親と子としての信心、親と子としての続柄を分かる事は勿論、神様と私どもが親子であると言う事を真実分かる事は勿論、ね、
 ならその真実親子であると言うその情というか、血のつながりというか、そういうものを感じてその親に対してどうぞ親に安心してもらえるよい子にならして下さいと言うのである。そこで完全なる氏子を目指すのである。だから立派な人間になるなどというのとは全然意味がちがう。いわゆる道徳的な人間ではないのですね。これは純信心、いうならば純お道の信心で言う氏子なんです、ね。
 ですから結局教祖様がお辿りになった、その道を神習わせて頂くという以外にはないですね。そこでならお互いがここに、自分の信心を検討してみなければならないと言う事は。様々な難儀をお互いが持っておる。いま金銭に行き詰まりを感じておる人もありゃ、人間関係の難しさかしさに、辟易としておる人もある。ね、病気の苦しみで苦しんでおると言う、ま、様々な難儀という難儀の中から。
 おかげを受けたいと言う願いがあるのでございますねお互い。そんならその願いがです、その願いが果たして、ね、神様に喜んで頂く様な願いの焦点になっておるかどうかということ。だからどうぞ商売が繁盛いたします様にいいんですよそれで。ね、いいけれどもですなら繁盛したら暁のことが。それは先日久留米の佐田さんがあのお届しておられますようにね、商売上の上にもおおみかげを頂きたいというわけですよね。
 多くのおかげを頂きたい。ね、その大きなおかげを頂きたい。これは私どもが久留米に十四、五から丁度七年間私は店員生活を致しましたが、その当時佐田さんといゃもう天下の佐田でしたですね。乾物の問屋さんでは私が知っておる限り。ね、言うならもう九州きっての大きなお店で、いまはもっと大きくなっておられましょうけれども、内容は当時と違う、というわけなんですね。
 貞代物産ですかなんかそういう、ですから現在あちらの佐田さんもこちらへ参ってくるし、支店の方を受け賜っておる佐田恭造さんも毎朝見えて、ね、昔の貞代と言う様なおかげを頂きたいのだけれども内容が違う。それはどう言う事かと言うとですね、所謂どうぞ神様に喜んで頂くような貞代としてのおかげが頂けれるために繁盛を願っているわけなんです、今度は。言うなら大きな還元がでける事のために。
 貞代の発展繁盛を願っておると言うのですから、これは私は親孝行の信心とはそういうようなでけてもできんなそういう願いを持つことが、親孝行なんです。親孝行させて頂きたい、親に喜んで頂きたい喜んで頂きたいと言うその願いを親が知った場合に、やはり良い子を持って幸せと親が思うのも同じでしょう。これ例えば商売上の発展を願うならば、親に孝行するも同じこととは。
 そういうところに願いの焦点が置かれるわけなんです。これはだから健康上のことでも、人間関係全ての難儀という難儀の願いの焦点というのは、ね、そこんところにおかれるような願いを持って、私は親に孝行するも同じことということになるのだと。同時に日常生活の在り方がです、実意丁寧神信心いわゆる教祖様ならこう言う生き方をなさったであろうと言う生き方をさせて頂くことなんだ。
 そこで皆さん信心が親に孝行するも同じ事と言う事の、意味が段々分かられたとこう思うですね。完全なる氏子に、お取立て下さいと只願うよりなし、又その精進よりなしと言う事はその様な事に精進するのであり、又願いとはそう言う様な願いより他はないのであります。そこへ完全なる氏子よい子を持って幸せと親が喜んでくれる様なだから人間が完全、あの完璧な人間になって行くのとは意味が違うでしょうが大変。ね、
 純いわゆる信心になって来る訳ですね、完全な氏子にお取立て下さい。そこでこの65節を一番初めに奉唱致しましたですね。是のなら一番ポイントになる所、いいですかこの65節のただ表面に出ておる所は、先ず自分が是は知っとかなければいけない事。私どんがどの様な場合でも迷信的であってはならないと言う事をこれにうたってありますけれども、ならこれをもう一段深めてどこを焦点に置くかと。
 今の御神訓をもとにしてからこの65節を頂くとどこが焦点になるかと言う事なんですね。それはこう言う事なんです。ね、丁度その真ん中に自分に都合のよい日、日柄自分に都合のよい日が良い日柄じゃと、いかに暦を見て天赦日じゃというても、雨風が強ては今日は不詳のお天気じゃと言うではないか、と言うここの自分に都合の良い日が良い日柄じゃと言うことになるのです。
 自分に都合のよい日柄じゃ、ね、都合のよい日が良い日柄じゃ、これが今日の御理解の焦点ですね。自分の都合のよい日が良い日柄じゃ、そこでまた少し哲学的になりますね。大変この辺は難しい所ははぁそんなら金光様の御信心ちゃ、自分のよかごっしてよかつばい、自分に都合んよかごっさえすりゃもうそれがよか、と言う事はと言う事をしたら、この辺大変な事になって来る訳なんです。
 自分につごうのよい日とはどういう日を持って、自分のつごうのよい日となるかと言う事になるのですよ。ね、ここんところを今日は分かって頂きたいとこう思うのです。先日から福岡の高橋さんところの、こちらの三福ずしの方の改造があっとります。ついでに今度神様のお部屋を一部屋おかげ頂きたいと。こんなに町のことですから広々というわけにはまいりません。
 それでそれでも自分たちの部屋と次の部屋を合わせて、そして神様中心に申し上げたところの、今までは自分の使い勝手の良いような生き方だったところが、あのお伺いをされたら、やはりあの神様を、神床を中心にしたところの部屋にされることになったんです。ここにこう押入れをひとつ作ると非常に便利もいい、ここに戸口を作ると非常にいい。けれども神様をご中心に申し上げたところの部屋にするというと。
 そこにちょっとおかしい。それでそれは潰していわゆる床の間を二間ですか、両端にちょうどここの秋永先生ところに今度お神様の間ができましたようなふうに中央に神様を持ってきて、両方に小さい押入れができると、神様のお道具なんかを入れるところができると、いう自分たち夫婦の部屋ですけれども、夫婦の部屋を中心にしない・・?という使い勝手ということを中心にしないで。
 神様を拝ましてもらうと、また神様がそこに鎮まって下さるに一番お鎮まり心地がよかろうという、そこを焦点において設計がでけておるんです。そすとこれとは違う、自分の使い勝手の良いのがね、ま、その良い自分の都合の良い日柄が良い日柄じゃと言う事とは少し意味が違って参りますよね。だからここのここんところがですね、所謂私ども信心させて頂くものが、教祖の神様ならばどうなさるであろうか。
 親に孝行するというのならば、やはり親の住まいをまず中心にして親が喜ぶ、その喜ぶ姿を見て自分もまた喜べれると言う信心、ね。だから自分に都合の良いというのはそういうことなんですよここでいう。これはだから自分勝手ということじゃないのです。ね、けれどもお互いが自分勝手の願い、自分勝手の自分中心のいわば信心をしておるものがどのくらい多いかわかりません。
 ま、言うならば生き方がですね、所謂自分本位の生き方ではなくて、どこまでも神様本位の生き方ということになる。親本位の生き方になる。そこに自分が喜べるだけではなくて親も喜ばれ子供も喜ばれ、そういういわば生き方そういう雰囲気を神様が喜んで下さらない筈がないから、次のおかげに発展していく事は勿論であります。65節のこの全部の中から頂かなければならん事は一応頂かなければなりません。ね、
 所謂その迷信から解放されるというか迷信打破、その上に立った今度はこれを教えとしてのですね、この教えの中心になる所、それも昨日頂いたその神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じ事ぞと言う様な信心を体得させて貰い分からせて頂く事の為にこの様な信心が段々なされてこなければならない。なら自分の都合の良い様にと言うてあるから、自分本位にしょうと言う所にはですね。
暦を見て天赦日じゃというても雨風が強うては今日は不詳のお天気だというではないかということになってくるのです。こんなにさせて頂きたいと思いますからお願いいたします、とたとえば高橋さんが自分たち夫婦本位でお願いなされば、ああそうですか、ならそのようにお取次ぎさせてもらいましょうと言う事になると思うのですよ。ね、天赦日いわゆる神様が許された日という意味なんです。
 けどもそこはどこまでも高橋定利を中心にしたものなんです。なら天赦日じゃというても雨風が強うてはいかんでしょう。この辺の所はですね、例えばならこれを人間親と子という間柄でいうてもええ。お父さん私はこげんしょうと思いよるけん、こげんするよち、あんたどんがそげん思うとるなら、そげんすりゃよかたいというて、ま例えばなら部屋なら部屋をした・?いつまでんそれが雨風のもとになってくる。
 わがよかこつばっかりあんたどんばっかりしてとなってくる。雨風が強うてはです、困るでしょうが後で。そん時許されたと言う事だけがおかげじゃないのだ。それよりかお父さん、こげなふうにしょうと思うが、お父さんの考えはどうですか、お父さんはこう思う、ならそうさせて頂きましょうと言う事になれば、これはそこに親も喜びられる、また自分も、心やすい事になって来る訳です。
 この一日の月次祭の終わってから、休ませて頂こうと思って、最後の御祈念をさせて頂こうと思うて、着物をまた着て、こちらへ出てきようとしよりましたら、田主丸の高芝さん達が、その親子三人連れで遅く参ってみえた。なんか特別のお伺いがあるからと言うて、それからまた御結界につかせてもらいました。ところがその二番目の息子、たかしさんと申しますが、たかしさんの就職のことで。
 先日から末永さんが、御結界に奉仕しておる時もお伺いをし、親先生にもお伺いをし、その後また末永さんにもお伺い、あのお願いをして頂いてだいたいここと決まった。決まったからそこへま、就職したわけなんです。ね、ところがその後に、またお願いしておったその所からも、来てくれというふうに言うてきた。ここにちょっと迷いが起こって来たわけですね、ですから。
 片一方は一番初めからまたやっていかにゃならんと。六年間も東京でいわば修行してきておるのですね。その仕事ではなくてから、ま、一番下積みのところからやり直していかにゃならん。給料も安い。自分よか年の若いとに物尋ねなきゃならないと言ったような中に、だからお父さんもやっぱ迷うたわけですね。そげんとこ行くよりはこっちならば、もうすぐお前の身に付けた技術は間に合うし、給料もいいし、ね、
 御神意頂いておるけれども、ま、こうして行き出した事は行き出したけれども、もう一遍お伺いしてみようということになった。本人はなおさらそれをそう思うわけ。ね、例えばそう言う様な場合ですよね。そう言う様な場合にです、ならそりゃあんたがたがほかから言うて来ておるところからですね、やっぱ変わろうといゃ、そうもお願いさせて頂こうと私は申しました。
 けれどもそれを二つ並べてどっちが良いかというて。お伺いをした時にこちらが良いと神様からはっきり頂いておるだから給料の安いとかね、ね、仕事がきついとかそういうようなことはです、ね、そういうようなことはいわばそろばんを持つということ、人間の考えだけで行くということはこの際本気でやめて、親子三人がその気になって神様任せの生き方にならせて頂いたらどうだろうか。ね、お母さんがいよりました。
 私はこのことを聞いてですね、これはお父さんもうどうでもこの人の給料当てしようと思うからちっとでん給料のよかとこにやろうとこうする。だからお父さん、私とあなたがまだ若いのだから、本気で一つ働かしてもろうて、ね、この日音の給料を当てにしないということになればです、もう一遍はまろうじゃないかと内々でも話したんですけれども、そこに迷いが、子供の迷いが、を中心としてです。
 親もそう思わんわけでもないから、ならもう一遍・・だけでもお伺いしに行こうというてま、その晩遅く出て来たわけなんですね。ここで段々と御理解頂かせて頂いておるうちにです、そんならそういう腹をきめてから、ね、現在今行きよるところへもう一つ、だからね、給料とか仕事とかじゃなくてからもうその仕事の中に本当に一つ楽しい有難いものを分からしてもらえるために。
 孝さんあんた自身も一つ本気で信心させてもらわんやいけんと、ま、言うてそれから又、最後のその御祈念を、親子三人と、私四人でさして頂いたんです。そしてただ今のことまた改めてお取次ぎさせて頂きましたらです、神様からあのもうまるきり腐ったようなバナナを頂くんです。ところがね、それが冷蔵庫から出して、皆さんあの御承知か知れませんけれども、あのバナナという果物は冷蔵庫入れたらもう駄目ですね。
 もう一日で真っ黒になってしまう。腐ったようになるです。けれどもね、皮をむくと中は綺麗にしてるです。皮だけです。そん時私は本当に有難いと思うたんです。高芝さんは勿論ですけれどもですね、そん息子のたかしさんもです、もうほんなこて給料は安か、仕事はきつか、ね、せっかくこっちの方からも言うてきとるとに馬鹿らしか。やっぱ気が腐らん筈がない心がそんバナナの、ね、
 けれども私は降りて来てから申しました。高芝さんこれはあんたたち一家にね、神様の特別の願いと言うか、期待があるからこそよて、ね、この人達はまだまだ、ま、いうならばここに良いお刺身にでもなりゃ、お吸い物にでもなるといったようなお魚があるとするか。けども今日のお惣菜に使うのは勿体なか、次に何かお客さんでもある時に使おうと思う時に冷蔵庫に入れようがて私は、ね、
 成程冷蔵庫に入れられりゃ、暗い思いもしなければならない、冷たい思いもしなければならないのだけれども、こりゃ、もう一時持たせようとする神様の願いなんだ。これは高芝一家でなきゃできん、高芝さんでなきゃできないときが必ずくるよと。いまあんたがたの一家は冷蔵庫の中にしまわれておるようなもん、だから今暗いと言うちゃならん、いま冷たいというちゃならん。
 たぎるような信心の修行によってそこに暖を頂き、暖かいものを頂き、信心の光によって暗い所も暗くないようなおかげを頂くと言うことが今の修行なんだ。私は今日ここに有難いと思うことはね、たかしさんがなるほど形の上でもこげな馬鹿らしいことはなかと言いよるごとあるけれども、いよいよんことは、本当のことは今晩親子三人でお伺いをして、親先生が右と仰れば右、左と仰れば左。
 そして腹ば決めようと言う腹があって今晩出てきおることは私は感ずる。だから腹の底、芯の底にはです、親先生任せになろうと言うそれが有難い。たかしさんそういう神様の願いがあるとじゃけん、給料とか働ききついとか、そげなこつ問題をおいてまだ若いんだから、一つ修行の方を先に取らせて頂いてです、先のことは人間じゃ分からん。今給料がよかれば、仕事が楽であればよかろうごとあるけれどもです。
 将来のためにも現在神様に選んで頂いた所に。本気にならせてもろうて修行する以外にはないばい、と言うて親子三人もその気になって帰らせて頂いたんですけれどもね。例えばそのことなんかが今日のところになってくるわけなんです。自分の都合ということだけを、ね、それは高芝さん親子がですこげんしてご神意を頂いて、ね、こちらに決めましたけれども、給料も安うございますし、今の高芝としては困りますから。
 どうぞ給料の高い方へやらして下さい、と言うて願えば私もそう願おうと言うのですから。これはしかし自分本位であり、自分の都合本位でしょうが。自分の都合の良い日が良い日じゃと仰るけれども、親に孝行するも同じことぞやという御神訓を頂くとです、親を中心に先に持って来なければならないことが段々分かってくるのです。そしてその暁なんだ。なるほど親先生が仰る通りさせて頂いて。
 この様におかげを頂いたという時に親先生も喜んで下さり、高芝一家も喜ばして頂ける。神様もなおさら有難いものとして喜んで下さる。そういう信心が私は親に孝行するも同じ事という信心だと思うのです。ね、だから今日の65節の御理解の中から、例えばもっとここの表面に出ていないその裏の裏のと頃の言うなら哲学的な意味で、この御理解を頂きますとですたい、都合の良い日が良い日柄じゃと言う様にいうてある所が、
 この御理解の一番焦点になる、中心にならなきゃならん所だと言う事が分かります。なら自分に都合の良いと言うのはどう言う事か、自分に都合の良いと言うのは次のなら御神訓を頂くとです親に孝行するも同じ事ぞや、信心はそれなんだぞと自分勝手にするという事じゃないのぞと、と言う事がその信心が分かったら。なら親先生どうさせてもらおうか、神様はどうでしょうか親はどう願っておるであろうかと。
 言う事をまず先に分からしてもろうて、その親の心に添うて行くと言う事が信心だと言うことになるのです。そこに本当の意味においての天赦日、本当の意味合いにおいてのお許し頂けるぞと、親も喜び金光大神も喜び、天地乃神様も喜んで下さり、願う氏子はなおさらのこと。これがおかげに進展して行かないはずはないことはです、ここ皆さんの信心の体験からも分かることでしょうが。
 成程神様任せになると言う事はこの様に有難い事だと言う事の体験をです、もう一遍思いだしてそういう生き方、そういう生き方こそが私はもう合楽に求められておる信心じゃなかろうかというふうに思うのですね。どうぞこの御理解をもう一段と深めて頂いたわけでございますね。そして結局は神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞやと、同じことぞとこう仰る、親に孝行するも同じことという信心が愈々焦点におかれなければならないと思うのでございます
。   どうぞ。